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憧憬接近

頭のなかで考えたことを、文字にするだけのブログ

『君の名は。』 感想

今朝、新海誠の最新作、「君の名は。」を見に行ってきた。

何から切り出したものか・・・・

とりあえず、記憶をとどめておくために、頭のなかで考えたことを書き連ねておきたい。


基本ネタバレを気にしない方向なので、気になる方はブラウザの戻るボタンをクリックしてもらえれば。


話のあらすじとかは、きちんとしたレビューサイトとかに任せるとして、まずは全体の感想から。

全体の感想

僕は普段、映画館で映画を見ることを全くしない。だからまず、良質な物語を絵と音響に圧倒されながら見ること自体が、非常に贅沢で幸福なことだなと感じた。新海誠作品の最も秀でたところは間違いなく背景だと思っているが、この作品でもそれは健在で、都会のコンクリートジャングルも、田舎の風景も、嵐に吹かれる木々も、何より彗星の降り注ぐ光景も、すべて心に留めておきたいくらいである。

物語自体は、普通の良質な物語である。間違いなく良い物語だったけど、1年に1作巡り会えるくらいかと言われたらそういうレベルでもない。悪くいうわけではないけれど、まあこれだけファンタジー作品が世に溢れている以上、二番煎じの組み合わせになるのは仕方のないことである。

面白いと思ったのは、ただの入れ替わりではなく、時間を超えた入れ替わりだということである。さらに面白いのは、時間は超えられても、空間は超えられないということである。時間版どこでもドアみたいなものだろうか。タイムワープは出来ても、普通のワープはできないのである(普通のワープってなんだ)。超えられる絶対性と超えられない絶対性の違いは何なのだろうか。

全体の感想はこれくらいにしておいて、少し個々のトピックについてフォーカスしておきたい。

時間を超えた入れ替わり

最初は時間を超えた入れ替わりだと分からないが、一応そのことを示唆しているポイントはある。

オープニングの後、まず、三葉の体を持った瀧の姿が描かれる。もしくは瀧の記憶のみを持った三葉の姿といったほうが良いか。一応瀧と呼ぶことにしておくが、彼は布団で目を覚まし、自分が女性になっていることに驚く。ここまではいい。問題はその次のカットだ。何もカットや演出を挟んでいないので一瞬混乱するが、いつの間にか翌日になっていて、入れ替わりも元に戻っている。この間、三葉は1日分の記憶を失っている。1日分だけ、時間がすっ飛んだと言っても良いのだろうか。

普通の入れ替わりであれば、自分でない時間は他者になっているものである。だから、三葉には瀧として過ごした時間が記憶されているはずなのに、それがない。逆もまたしかりである。
このことが、まず普通の入れ替わりではないことを示唆していると言っていいだろう。

一般的には逢魔時だとか、彼は誰時なんて言われるが、作中ではカタワレドキという言葉で、世界の被膜が薄くなる時間が示されている。どうも三葉の住む町では、代々こういう入れ替わりがよく起こっていたらしい。「カタワレドキ」、「片割れ時」だろうか。もしそうなら、2つの片割れが結びつく時という意味だろうか。さらにそれもそうなら、2つの世界が1つであることがまるで正常であるというように聞こえる。2つで1つというのは、日本人特有の考え方であると思う(これについては別で記事を書きたい)が、作中でも萬葉言葉というワードが出てきていたし、あながち間違った論理でもないのかもしれない。
まあ作品の解釈なんて人の数だけあっていいと思うし、それに間違いも正解もないのだろうけど。


ちなみに世界の被膜が薄くなるという言葉は、作中には無かったと思う(作中では組紐の話から、絡まるとかそういう感じの言葉を使っていたはず)が、こういう2つの世界が結びつく物語というと、真っ先に「絶対少年」を思い出すので、気に入って使ってるだけである。

彗星の落下

彗星の落下による災害を回避するために、瀧と三葉、そして三葉の友人たちが動くシーンはドキドキするものである。勿論、瀧の三葉を助けたいと思う気持ち。そのために東京から飛騨の山まで嵐の中、旅をしてきたということ。失われたものへの追憶。そのすべてが心を揺さぶってくる。

町長である父と対峙して避難をするように要請するも、気が触れたと思われて無下にされるシーン、高校の放送室から三葉の友人が避難を呼びかけるも、高校の先生に止められるシーン。普段権力に抑えつけられていると、どうもこういう権力への対抗みたいなものが美しく見えてくる。妄想の中でくらい、ヒーローになりたいのだろう。

そういった感情が織り交ぜって、なぜか涙が出そうになった。


思えばこのシーンの結末は、一番最初のオープニングですでに示されていた。成長していく瀧と三葉の姿が描かれている以上、彗星による災害は回避できたと考えるほかない。だから、このシーンの終わりはほんとうの意味でのクライマックスではないのである。絵も、音楽も最高潮に達するが、物語としてはここからのエピローグが肝心なのである。

人的被害を回避できたのは、町長である三葉の父親が、避難訓練を強行的に推し進めたから、というようなことがエピローグに出てくる週刊誌の記事から読み取れる。彼なりに思うところがあった、ということだろうか。外伝小説が出ているようなので、それはそっちを見たほうが良いかもしれない。

スタッフについて少し覚え書き

回想シーンの作画は、僕の記憶が定かであれば四宮義俊によるものである。この人はNHK-AC共同キャンペーン「『もったいない』であしたは変わる」で監督をしていたが、この作品はNHK・民放問わずかなりの頻度でCMが流れていたので、記憶に新しい方も多いと思う。コミックス・ウェーブ・フィルムで作っているので、新海誠作品に似通う部分も多く、新海誠作品かと勘違いしてしまう人も多かったと思う。
この方は言の葉の庭のポスターも描いているが、緑の表現が素晴らしく、光あふれながらも、その中で緑がちゃんと息づいている感じを受ける。やはり必見であると思う。

エピローグについて

結局この映画で本当に肝心なのは、これが愛の物語なのか、孤悲の物語なのかということである。わかりやすく言えば、秒速5センチメートルのように、精神的なつながりが大事で、結局二人が別々の道を歩んでもそれはハッピーエンドだよっていうふうに終わらせるのか、言の葉の庭のように、2つで1つ、不可分であり、二人は交わるべきなのか。それが問題であり、この映画を見ているときの最大の関心事であった。

結果は、これもまたポスターで示されていたとおりである。二人の世界は再び交わった。三葉が瀧と邂逅してから8年、瀧が三葉と邂逅してから5年の時を越えて。

個人的には来年に控える就活を目の当たりにするのは辛いものがあったが、それはそれ。


しかし、こうして振り返ってみれば伏線だらけであった。僕の考えすぎの可能性もあるが。
2つで1つがなぜ日本人特有の考え方なのかとか、失われることの持つ意味ってなんなのだろうってこととかについては、また別の記事で。