憧憬接近

頭のなかで考えたことを、文字にするだけのブログ

『君の名は。』 感想

今朝、新海誠の最新作、「君の名は。」を見に行ってきた。

何から切り出したものか・・・・

とりあえず、記憶をとどめておくために、頭のなかで考えたことを書き連ねておきたい。


基本ネタバレを気にしない方向なので、気になる方はブラウザの戻るボタンをクリックしてもらえれば。

続きを読む

映画館はいつからシネマ・コンプレックスになったのか

 明日、久しぶりに映画館に映画を見に行くことにした。学生になってからは初めてなので、おそらく5年ぶりとかだろうか。

 作品の事自体は見た後に書くとして、今住んでいるところから一番近い映画館は、最寄り駅から電車で10分ほどいった駅の前にあるショッピングモールに併設されたシネマコンプレックスである。

 シネマコンプレックス [7] 【cinema complex】
入場券売り場や売店などを共有する複数の映画館が集合している施設。複合型映画館。シネ-プレックス。シネコン

 思えば、以前に住んでいた街には映画館がいくつもあったが、シネマコンプレックスのようなものは無かった。上に挙げたような施設もその中にはあったが、古びた昔ながらの映画館で、客足もまばらだった。飲食物で稼ごうとも、ラグジュアリーな空間を演出することもなく、ニッチでコアな映画ファンには愛されていたが、結局数年前に潰れてしまった。

  僕が初めてシネマコンプレックスという言葉を認識したのは、小学校の頃、豊洲にあるシネコンへ行った時だった。別に見たい作品があったわけでもなく、そして結局何かを見ることもなく通り過ぎただけだったが、映画館というワードに対して持っていたイメージとのギャップのせいで、その時の光景は鮮明に残っている。

 日本で純粋な意味のシネマコンプレックスが増えたのは、1990年代後半くらいからだそうだ。いまや日本にあるスクリーンの多くが、どこかのシネマコンプレックスのスクリーンである。

 

 別にゴキブリが蠢く昭和の映画館が好きなわけではない。ニッチでコアな映画ファンには愛されている映画館だって、彼らにとっては居心地が良いかもしれないが、一般人には居心地が良くないということである。映画市場が縮小する中、淘汰されるのは必然だろう。それにコンパクトに纏まってたほうがコストも少なくて済むだろう。

 

 ただ、シネマコンプレックスと映画館はやっぱり別の言葉だと、僕は思い続けている。

 

ストレスチェック

先日、バイト先で「ストレスチェック」なるものを受けさせられた。

結果は見事に「高ストレス」の判定。だいたいこういうものを受けると、やれ対人不安だのうつ病予備軍だの言われるので、ある意味では予定調和的な結果である。

 

ストレスチェックとは

そもそもストレスチェックとはなんぞや、ということで調べてみると、東洋経済の記事に行き当たった。

 

toyokeizai.net

 

記事からストレスチェックの内容をかいつまむと

・従業員50人以上の事業所に義務付け

・全従業員に対してストレス状態をセルフチェックさせるもの

・自殺者を減らして経済損失を抑えよう

みたいなものだとか。今年の11月末までに1度は実施しなければならないらしい。

 

しかし、このストレスチェックには問題点がある。それは記事にもあるように、

「ストレスチェックはセルフケアの制度であり、ストレスを抱え込むタイプの人を救い出すものではない」

ということ。自分のストレスに気付けていない人には多少効果があるかもしれないが、ストレスを抱え込むタイプの人にとっては、お墨付きがもらえるだけである。高ストレスと判定された人に対する面談は、最終的に本人の意思に基づいて行われるようだが、中々「ストレスが溜まっているので面談してください」といえる人はいないだろう。


僕の場合、周りにもっと精神を病んでいる人がいるので、中々自分が精神科に行ってもいいレベルの精神状態なのか判断がつかない部分もあり、お墨付きが貰えれば大手を振って精神科に行けるというものである。

こういう考え自体、偏屈じみているのかもしれない。

人は愚かな生き物である

何かを書き残したい。

自分の思いを言葉にしておきたい。

自分が考えたことをどこかに貯めておきたい。

 

そういった感情は常に心のどこかにあるのだけれど、だいたい三日坊主で長続きせず。

それでも、こんなブログを始めてしまうのだから、人とはやはり愚かな生き物である。

 

ブログタイトルの話

「想ったものに近づく」ということが人生ではままあるようである。昔憧れていた場所に縁あって住むことになったり、行きたいところに行けることになったり。

そういった運命的な出会いは、結局のところ、受け取る側が運命的かと思うかどうかでしかないのだけれど、運命的と思うにはそれなりの理由があるはずである。現実主義者の人達は笑うだろうけど、僕はどちらかと言えばロマンチストなので、こういう話を聞くと無駄に感じ入ってしまう。

 

一方で、想ったものが近づいてくるのか、想ったものに近づいていくのかは議論の別れるところである。僕はどっちの側面もあると思っている。そして、想ったものが近づいてくることが、必ずしも幸福ではないとも思っている。nを無限大に飛ばした時の1/nは0に限りなく近づき、ほぼ0とみなせるが、やはり0ではないのである。

手に入れられない憧れは、心を乱すばかりである。そして、どんなに手をつくしても手に入れられないと悟った時、大概の人は諦める。別に悪いことじゃない。それは最大公約数的な解答であるし、諦められない少数派たちも、自らが少数派であることは受け入れているのである。本当に心の底から夢想家でいられる人がいるとは思えない。少なくとも現実に生きている以上、現実を直視することは必要だし、それが出来ない人は精神病院に行くべきである。でも、夢想家でありたい気持ちは心のどこそこかにあってほしいものである。

 

深夜テンションで書き連ねてしまったので、とりあえずこの話は一旦終了、ということで。